2016年3月13日日曜日

福島の現実

放射線が目に見えたなら、あの日を境に放射線に覆われた世界が広がって 見えたはず。
放射線が目に見えたなら、除染と呼んで放射線たっぷりの土壌や落ち葉などを袋に詰めてちょっと離れた場所に集めて何年も置きっぱなし。放射性物質をほんのちょっと動かしただけ。裏山や鎮守の森は手付かずだってこともはっきりわかったはず。

放射線が目に見えたなら、それを前にして暮らしていくことは不可能に近かっただろう。
それでも、たまたま福島で原発事故が起きてしまったために、そこに暮らしていた人々は、否応なしにその現実と向き合わなければならない。しかも、事故の責任を誰も取らず、国や東電はあたかも放射線がいつのまにか消えてなくなり安全になったとデタラメを世間に広め、放射線が見えないことをいいことに、避難や移住の方策を次々と打ち切ってしまう。突然、或る日を境にそれまでの暮らしが、それまでの家族や村や社会の歴史が途切れ、なにもかもが分断されてしまう。これがどれほど悲しく、辛く、腹立たしいことか、今回福島原発ツアーに参加してひしひしと伝わってきたのだった。

2015年10月10日・11日の二日間、私は南相馬市と浪江町の希望の牧場を訪ねた。

福島の現実と題して、この二日間の見聞を書いておこうと思うのだが、なかなか書けない。
それは、福島の人々が置かれている現実に対して、ただ悲しいとか憤るとか言っていても何も変わらないからなのか。いろいろな情報が数限りなく流され、私が何か書く意味というのがあるのだろうか、そう考えてしまうからなのか。 



昨日3月11日で、あれから丸5年の歳月が流れた。
地震の被害、津波の被害、そして原発事故の被害。そうしていまだに17万にのぼる人々が日本各地で避難生活を余儀なくされている。東京で暮らしていると、普段は震災前とさほど変わらない、震災がまるでなかったかのような毎日。この落差はなんだろう。
 日本全体でもっと復興に力を注ぐべきではないのか。それなのに、この国は相変わらず巨額を投じて自然を壊してコンクリートの入れ物ばかりを作っている。リニア計画はその最たるものだと思う。まずは原発ゼロは当然のこととして、これを教訓として絶対踏み外していけないこととしてそこから再出発すべきなのに、日本という国はなぜ学ばないのだろう。      (2016年3月12日)