2020年11月6日金曜日

疑ってみること (2020.7)

月一回のフェア民学校(奈須りえ大田区議会議員主催)に1年間出席して、最後に各参加者が自由に発表する時間をもらいました。毎回の時事に即したテーマはそれぞれ今後も勉強していきたいですが、講義を聞きながら一貫して思うことは、「世の中に起きていることはまず疑ってみよう、自分の頭で考えてみよう」という生きていく上での根本的な問いかけだったのではないかと思います。


当たり前のような、今更改めて掲げるまでもない命題のように見えますが、いちいち考えないベルトコンベアーに乗せられた現代人にとってこれは意外と面倒なことなのかもしれません。


哲学系ユーチューバーじゅんちゃんの哲学講義ドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの「人間の条件」という本の紹介がありました。難しくてなかなか読み進められないのですが、人間の基本的な活動力に「労働」「仕事」「活動」の三つをあげています。


「労働labor」とは人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力で、生命維持に必要な活動で、近代社会においてほとんどの人々がこの労働に組み込まれてしまっています。

「仕事work」とは人間存在の非自然性に関係し、一人一人の人間はいつか死ぬが自然とは全く異なる世界、時間を超えて存続する境を作ろうとする活動力のことで、

仕事は、すべての自然環境と際立って異なるものの「人工的」世界を作りだす。(芸術家の仕事のようなもの?)

「活動action」とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生きこの世界にすむのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している、として、一人一人がそれぞれ際立って「等しく異なる」存在であり、言論と行為をもって、他者と交わることで発揮されるとしています。これは「何であるかwhat-性別、人種、年齢など」ではなく、「誰であるかwho-人格的アイデンティティ」を示すことでもあります。つまり、ユニークネスというのは、この「言語活動」の分野に置いて発揮されると言えます。現代社会は、近代国家成立以降、労働に重きが置かれ、いかに効率よく生産性を上げられるかが重要と考えられるようになり、一人一人は顔のない「労働力」の一つになってしまいました。考えることをやめてしまったのです。


2013年に岩波ホールで映画「ハンナ・アーレント」が上映され、中高年を中心に連日の大盛況だったそうです。私は見る機会がなかったのですが、この映画の中で、ナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴したアーレントは、彼が残虐な殺人鬼ではなく、ヒトラーの命令どおりに動いただけの〝平凡な人間〟なのではないかと感じ、レポートし、世界中で批判に晒されました。のちのアーレントのスピーチは、まるで現在の日本の政治状況に対して発せられた言葉のようです。裁判でアイヒマンは『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と反論したことを受けてアーレントは言います「アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」

この話を聞いて、私は「人間の条件」とアーレントが言いたいのは、まさに三つ目の「活動action」なのだと思いました。他者がいて、そこに言論を通じて他者と交わることで思考を深め、より良き社会を求め続けていくことをなおざりにしないようにということではないかと思います。今、日本の国の舵取りはあまりにお粗末で、なぜこんな馬鹿げたことが次から次へと決まるのか、組織に組み込まれた人々がまさにアイヒマンと同じように考えることをやめてしまったことの罪は大きいですし、組織の中では誰にでも起こりうることなのかもしれません。


そう考えると絶望的になりそうですが、新型コロナで人々の生活様式が変わったことで、良い方向に向くのではないかという希望を持ちました。コロナ鬱などの言葉が生まれ、友人と自由に会えない、不自由で耐えられないとか、早く元の生活に戻りたいという声がたくさん聞こえますが、もう少し視線を広げて社会を俯瞰してみると、ソーシャルディスタンスが言われ、他者との距離感を意識するようになったということは、その人の交友関係にある「他者」ではなく、一般的な「他者」がこれまでより認識され始めたと言えないでしょうか。あっという間に定着したスーパーのレジでの並び方は、以前と明らかに違います。ただ距離を置いて並んでいるという現象以上に対象を「他者」として認識しているという点でこれまでと違うと思えてなりません。出発点はあくまでも「私」であり、その「私」と同じ別の「私」が「他者」と認識されるというイメージです。こうした変化が「自分の頭で考える」こととどう繋がるのか、私自身の海外生活の中で気づいたことが根拠になっています。日本では、知り合いと見ず知らずとの間に歴然とした違いがあるように思います。海外での暮らしの中で私がほとんど疎外感を感じることなく、ごく普通に暮らせたのは、日本のような区別がないからではないかと思います。アーレントの「他者」という概念が今も生きているのです。従って、他者との関係性がそこに生まれ、「活動action」が可能になり、労働生産性では測れないユニークな言論が生まれます。日本にもこう言った動きが社会の中に根付いてくるのかもしれないと、ソーシャルディスタンス社会に期待するわけです。


赤旗7月19日号で寺島実郎さんは、「大国の横暴」の時代は終わりつつあり、これからは「全員参加型秩序」へ進む。全員参加型は丸テーブルで持論を主張し合うのに似ている。と言っています。ソーシャルディスタンスからは随分と飛躍しましたが、「丸テーブル」と「持論を主張」というところが重要だと思います。寺島さんが言うような全員参加型秩序への移行には、言論の力が最も大切なのだと思います。



ーーーーー参考になった記事をコピペーーーーー「週刊現代」2013127日号


11月中旬のある平日。東京・神保町の岩波ホール前に、50人以上の長い列ができていた。時刻は午前10時半。映画のチケットを求める人々が、上映の1時間以上も前から並んでいるのだ。

「主人に面白いから観てきたら、と言われて今日は友達と3人で来たんです」

60代後半の女性はこう話す。平日の朝という時間帯も関係しているだろうが、周囲を見渡すと中高年の男女が9割以上を占めていた。

公開中の映画『ハンナ・アーレント』が、いま中高年を中心に大きな注目を集めている。ドイツ系ユダヤ人の哲学者、ハンナ・アーレントという女性を描いた事実に基づく物語だ。

東京で唯一、この作品を上映している岩波ホールの企画担当・原田健秀氏は、その盛況ぶりに驚いているという。

「初日の1026日は台風が来ていたのですが、3回の上映すべてが満員になりました。すでに公開から4週間近くが経ちましたが、平日の昼間は満席が続いています。100人近くが入れないこともある。良い作品なので、公開前から手ごたえは感じていましたが、これほど反響が出るとは思いませんでした」

給会社のセテラ・インターナショナルによると、「東京・岩波ホールでの動員が非常に好調なので、全国のミニシアターからも引き合いが来ている」という。現在、東京の岩波ホールのほか、愛知・名古屋シネマテーク、大阪・梅田ガーデンシネマでも公開中。今後、全国各地で上映が予定されている(詳細は作品ホームページを参照)。

ミニシアター系の映画が、ここまで話題になるのはかなり稀なこと。

「ハンナ・アーレントは、20世紀を代表する哲学者の一人だと思いますが、彼女の代表作『全体主義の起原』は理解するのも大変な大著で、読んだことのある人は多くないでしょう。これほど盛況になる映画だとは考えてもみませんでした」

と東京大学大学院教授の藤原帰一氏も首をかしげる。いったい、何がそんなに人を惹きつけているのか。

まず、作品のストーリーを簡単に紹介しよう。


物語の舞台は、1960年代初頭。ナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送したアドルフ・アイヒマンが逮捕された。哲学者のハンナ・アーレントは、自ら希望して彼の裁判を傍聴し、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを書くこととなる。実際に裁判でのアイヒマンの発言を聞くと、アーレントは、彼が残虐な殺人鬼ではなく、ヒトラーの命令どおりに動いただけの〝平凡な人間〟なのではないかと感じるようになる。レポートでは、その点を指摘。さらに、ユダヤ人指導者がナチスに協力していたという新たな事実も記したことで、発表後、世界中で大批判が巻き起こる

ナチスに対するユダヤ人の思いを、完全に理解するのは困難だろう。日本人にとってはシンパシーを感じにくいテーマかもしれない。映画評論家の秦早穂子氏は、それでも評判となっている理由をこう分析する。

「ハンナ・アーレントという女性の一生を取り上げなかったことが、成功の理由だと思います。波乱万丈な彼女の生涯を追うストーリーにもできたはず。ですが、あえてそれをしなかったことで、結果として『主張したいこと』がより鮮明になっていました」

秦氏が言うように、アーレントの人生は、波乱に富んだものだった。

1906年にドイツで生まれたアーレントは、社会民主主義者のユダヤ人家庭で育った。大学では哲学者のハイデガーに師事し、既婚者である彼と一時不倫関係に陥る。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に連行されるも、脱出。アメリカに亡命した。1951年には著作『全体主義の起原』を発表して話題となり、哲学者としての地位を確立していく。その後、プリンストン大学やハーバード大学の客員教授を務め、映画で描かれているアイヒマン裁判を経験。この騒動後も政治哲学の第一人者として活動を続け、69歳のときに心臓麻痺によりその生涯を閉じた。2度の結婚を経験し、恋多き女としての一面も持ちあわせる。

伝えたいことがよく分かる

このような、女性としての波乱万丈な生き様を描くことも十分にできたはずだ。しかし、本作品ではその点にはほとんど触れず、アイヒマン裁判の騒動に焦点を当てることで「主張したいこと」を伝えている。これこそが、多くの観客の心を魅了している理由だろう。

それが最も強く表れているのが、作品の最後、アーレントの「8分間のスピーチ」だ。前出・岩波ホールの原田氏は、「この場面に強く感銘を受けて上映を決めた」と語る。

裁判の傍聴記を発表したのち、「アイヒマン擁護だ」とさまざまな誹謗中傷を受けたアーレント。勤務していた大学からは辞職してほしいと告げられる。だが、「絶対に辞めません」と拒否した彼女は、学生たちへの講義という形で、初めての反論を試みる。これが8分間のスピーチだ。


学生や大学の教授が見つめる中、教壇に立ち、煙草を吸いながら、彼女はこう訴えかける。

「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」

さらに、自分はアイヒマンを擁護したのではなく理解を試みたのだと主張したうえで、このようにも語る。

「アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」

「出来ません」と言えますか

アイヒマンは裁判で、ユダヤ人をガス室に送ったのは自分の意志ではなく、上層部からの命令だったと主張した。その姿はアーレントの眼に、組織の調和を乱さないことを重んじ、言われたとおりにしか動かない小役人のように映ったのだ。

思考停止が悪を生む。考えることで人間は強くなる。映画を通じて「主張したいこと」は、この真理だった。

「アーレントの言葉に恐怖感を抱きました。私の胸に、ぐさりと刺さりましたね」
映画評論家の佐藤忠男氏はこう話す。

「ユダヤ人としては、アイヒマンらを真っ向から非難し、断罪することが当時の常識でしたが、彼女はそれをしなかった。善悪を考える力もない連中の犯罪だった、と主張したわけです。それは、単純な正義を振りかざす者に『お前は程度が低いよ』と言ったようなもの。これまで人間が依って立っていたプライドの根幹を揺るがすような彼女の姿を描いたことが、非常に秀逸でした」

佐藤氏が言うように、アーレントの言葉をわが身に向けられたものとして受け止め、感銘を受けている人は多い。「この映画の人気の秘密は、アイヒマンはどこにでもいるからではないか」と語るのは、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏だ。

「自分の考えとは違うけど、組織の中では『できません』と言えないことがたくさんある。組織の論理に従っているのです。この時代に限った話ではない。日本の戦争だってそうやって行われていますし、いま国会を通ろうとしている秘密保護法案だってそうでしょう。安倍政権の論理からすれば、これを通すのがいいとされる。あなたはアイヒマンではないですか、とこの映画は問いかけているのです」

たとえば、東日本大震災で露になった原発の問題もそうではなかったか。環境のため、安定した電力供給のため、コスト削減のため、と信じて推進してきた原発の恐ろしさを震災が起こってはじめて考えるようになった。かと思えば、事故から3年近くが過ぎたいま、経済問題を理由に再稼働や原発の海外輸出に舵を切る動きが出ているのは、アーレントの言う「思考停止」に他ならない。


「東電の人たちも、マニュアルに沿ってやってきたところで、あの事故があった。アイヒマンに重なるというのは言い過ぎかもしれませんが、いいと思ってやってきたことが想定外の事故につながるというのは、誰の身にも起こり得ることでしょう。震災以降の『一致団結』という流れに、嘘くささを感じているからこそ、この作品に共感するのだと思うのです」

こう話す作家の小野正嗣氏は、考えないことが普通になった現代の状況についても、こんな指摘をする。

「私は大学で講義もしているのでとくに強く感じるのですが、いまはわからないことがあったらすぐにパソコンやスマホで調べられる。わからないことを蓄えておく時間がないのです。選択肢の与えられた質問には答えられても、なぜそう思うのか、自分の意見を言うことができなくなっている。どんな疑問も瞬時に解決できる社会に生きていると、思考が止まってしまうんです。この、『考えなくてもいい社会』に、危機感を持っている人が多いということではないでしょうか」

指示された通りにやるのが最善だと考える、マニュアルに書いてある以外のことには対応できない、ネット上の情報に影響を受ける……自分の身を省みたとき、善悪を考える力が備わっていると、自信が持てる人は多くはないだろう。

彼女の言葉に、いま一度、我を振り返ってみてはいかがだろうか。

「週刊現代」2013127日号より