結果は舛添氏が選ばれるだろうことは、期間中ずっと、ほとんど疑いの余地がないほど明かでした。それでも、やはり疑問は残ります。
1)メディアの報道管制、報道の自粛はあまりにも不自然でした。今回舛添氏のとんでもない発言が後から後から明るみに出て、とうとう「舛添さんを都知事にしたくない女たちの会」まで発足し、海外メディアもこぞって伝えました。しかし、国内では主だったテレビや新聞はだんまりでした。事実、ちょうど投票日に集まった友人5人はだれもこのニュースを知らなかったし、別のところでこの運動に賛同してほしいと頼んだところ、悪意があって舛添氏を落とそうとする運動かと疑った人もいました。何しろどこにもそんなニュースは流れないのですから。
2)メディアの報道管制、報道の自粛その2。メディアの欠陥をもっと端的に表しているのは、公平という錦の御旗のもと、何も報道しないという姿勢です。そして何も勉強しようとしないコメンテーターたち。ネットをやらない有権者は候補者の政策や人柄、バックグラウンドなどほとんど知りようがありません。候補者のスローガンからかろうじて類推するだけです。また、報道に携わる人たちは候補者の政策をきちんと読み込んでおらず、知らないまま間違った(あるいは不十分な)情報に基づいて有権者に語るため、正しい情報はますます闇の中に埋まってしまいます。今回、私はこのことを宇都宮けんじさんをずっとフォローして初めてわかりました。宇都宮さんの政策は実にきめ細かく練り上げてあり、すべてについて決められた時間内に十二分に話せないという情況なのに、コメンテーターはそれを政策がないとか、話題にならなかったと言わないで欲しいと思います。
3)大雪の影響で投票率が低かったのだろうか。終わってみれば46%の投票率。都民は不毛な知事選に嫌気がさした、争点がぼけた、とか言われています。そこに大雪の影響で出足が削がれたと。でも、ほんとうのところは最初から都民という意識を持った都民は少ないのだと思います。東京の下町や古くからの住宅街に長年住んでその土地に愛着を抱いている都民ばかりではない。多くの東京在住者にとって東京はチャンスを与えてくれる場所でしかないのでしょう。
普通選挙が実施され、男性のみでしたが参政権が樹立されたのは1925年、女性の国政参加は戦後になってからの1946年、僅か68年しか経っていません。多くの人権活動家の血の滲むような努力があって得た権利なのです。いま、その権利について、「勝ち取った」という認識を持っている人は果たしてどれほどいるでしょうか。勝ち取ったという経験がないので、粗末に扱っているのかもしれません。民主主義然り。これは文字通り「民」が「主役」という考え方だと思います。一人一人が自分の頭で考えて、隣の人、向かい側の人と意見を交わしながら、繋がって行く。そうやって皆が参加して成り立つ社会が民主主義社会。時の権力者の強権の下で右向け右となす術もなく流されて行くのはもうこりごりです。いま、東京デモクラシー、草の根デモクラシーという言葉が少しずつ広まっています。その言葉の意味をもう一度考えてみたいと思います。
投票率の低さは、大雪のせいではなく、まさに都民の実態を表しているだけなのかもしれません。
2014年2月10日月曜日
2014年1月29日水曜日
都知事選と脱原発
私は気がかりでなりません。この国の行方が。
都知事選でにわかに脱原発が話題になっています。
脱原発、54機もつくってしまって、どうやって原発に頼らないエネルギー政策に切り替えられるのだろう、いくら現在一機も動いてないと言っても、止めたらそれで「はいさよなら」というわけにはいかない原発施設なのですから、動かしても地獄、止めても地獄、それなら動かしてしまえ、みたいな気分になることも多いかもしれないなとおもいます。私は、何が何でも今のこの機運が過ぎ去らない間にきっぱりやめるべきと思っています。
ただ、このまま原発を動かせなければ、電気料金を値上げすると東電が脅かすように、原材料の輸入にこのまま莫大なお金を使い続けることは到底できないと多くの人は考えているでしょう。電気料金の値上げは事業の命取りになるという会社もたくさんあるでしょう。
いま、本気で原発は安全だと考えている人がどれほどいるでしょうか。ほとんどの人が、原発の怖さはわかっているのです。でも、原発を止めた場合の実行可能な代替エネルギー案が決まらない限り、原発のお世話になるしかないと考えていると思います。
代替エネルギーが簡単に見つからない、だから原発という結論になるのは早すぎます。小泉さんがいみじくも言うように、国がその方向性を打ち出せば、後は、有能な人たちが創意工夫をどんどんやってくれるでしょう。早く、とにかく早く舵を切ることが肝心なのだと思えてなりません。
武田先生のブログ 資源エネルギー庁の無計画を、資源エネルギー庁の報告書から知る
に原子力、石炭、天然ガスのキロワットアワーのコスト比較が載っています。資源エネルギー庁のさじ加減的案配を排した比較です。結果、原子力はだいたい11.5円、石炭が8円、天然ガスが10円。元のグラフだと石炭と天然ガスにはCO2対策費が組み込まれているため、原子力より高く見えますが、実際はこのように原子力より安いのです。
このことをもっともっとみんなが理解すれば、本当に脱原発に舵が切れると思います。
都知事選でにわかに脱原発が話題になっています。
脱原発、54機もつくってしまって、どうやって原発に頼らないエネルギー政策に切り替えられるのだろう、いくら現在一機も動いてないと言っても、止めたらそれで「はいさよなら」というわけにはいかない原発施設なのですから、動かしても地獄、止めても地獄、それなら動かしてしまえ、みたいな気分になることも多いかもしれないなとおもいます。私は、何が何でも今のこの機運が過ぎ去らない間にきっぱりやめるべきと思っています。
ただ、このまま原発を動かせなければ、電気料金を値上げすると東電が脅かすように、原材料の輸入にこのまま莫大なお金を使い続けることは到底できないと多くの人は考えているでしょう。電気料金の値上げは事業の命取りになるという会社もたくさんあるでしょう。
いま、本気で原発は安全だと考えている人がどれほどいるでしょうか。ほとんどの人が、原発の怖さはわかっているのです。でも、原発を止めた場合の実行可能な代替エネルギー案が決まらない限り、原発のお世話になるしかないと考えていると思います。
代替エネルギーが簡単に見つからない、だから原発という結論になるのは早すぎます。小泉さんがいみじくも言うように、国がその方向性を打ち出せば、後は、有能な人たちが創意工夫をどんどんやってくれるでしょう。早く、とにかく早く舵を切ることが肝心なのだと思えてなりません。
武田先生のブログ 資源エネルギー庁の無計画を、資源エネルギー庁の報告書から知る
に原子力、石炭、天然ガスのキロワットアワーのコスト比較が載っています。資源エネルギー庁のさじ加減的案配を排した比較です。結果、原子力はだいたい11.5円、石炭が8円、天然ガスが10円。元のグラフだと石炭と天然ガスにはCO2対策費が組み込まれているため、原子力より高く見えますが、実際はこのように原子力より安いのです。
このことをもっともっとみんなが理解すれば、本当に脱原発に舵が切れると思います。
2013年11月14日木曜日
電車の中の幸せ
東横線、日中はがらがらでのんびりしています。
向かい側の席に中年の女性がひとり。考え事をしているのか、難しい顔。
隣にバギーを押した若い母親が座りました。バギーに赤ちゃんを乗せたまま、赤ちゃんの顔がよく見えるように、向き合うようにバギーの向きを変えました。そして赤ちゃんに目で話しかけ、幸せそうに微笑んでいます。本当に幸せそう。私のところから見えないけれど赤ちゃんもきっとお母さんを見つめて笑いながら言葉にならない言葉で話しかけていたのでしょう。見ている私もとても幸せな気分になりました。
でも、バギーのその向きだと結構場所を取るので、ガラガラで空いている電車とはいえ、通路の半分以上を塞いでしまいます。私は、ちょっとハラハラしました。だって、乗客が何人もそのバギーを避けるようにして右から左、左から右へと移動して行くのですから、「じゃまだな」と思う人もいるんじゃないかと。でもそれは杞憂でした。
赤ちゃん連れにはバギーがすこしぐらい場所を取ってもしようがない、という感じで、みんな当然という風にバギーにぶつからないよう、よけながら通って行きます。
そして、左隣に座っていた難しい顔だった女性が赤ちゃんを見て、ニコッとして、そのお母さんと話し始めました。なにやら話が弾んでいます。お母さんと赤ちゃんの間のあったかい空気がその女性の周りも包みました。
しばらくすると、もう一人、別の女性が今度は右隣に座りました。そして赤ちゃんを見てにこっと笑って幸せそう。あのあったかい空気がさらに広がりました。
バギーを押したお母さんが来る前にはなかった愛にあふれた空間。言葉じゃない。愛情が、母の愛が、子の母を慕う思いが辺りを包んでいくのです。
向かい側の席に中年の女性がひとり。考え事をしているのか、難しい顔。
隣にバギーを押した若い母親が座りました。バギーに赤ちゃんを乗せたまま、赤ちゃんの顔がよく見えるように、向き合うようにバギーの向きを変えました。そして赤ちゃんに目で話しかけ、幸せそうに微笑んでいます。本当に幸せそう。私のところから見えないけれど赤ちゃんもきっとお母さんを見つめて笑いながら言葉にならない言葉で話しかけていたのでしょう。見ている私もとても幸せな気分になりました。
でも、バギーのその向きだと結構場所を取るので、ガラガラで空いている電車とはいえ、通路の半分以上を塞いでしまいます。私は、ちょっとハラハラしました。だって、乗客が何人もそのバギーを避けるようにして右から左、左から右へと移動して行くのですから、「じゃまだな」と思う人もいるんじゃないかと。でもそれは杞憂でした。
赤ちゃん連れにはバギーがすこしぐらい場所を取ってもしようがない、という感じで、みんな当然という風にバギーにぶつからないよう、よけながら通って行きます。
そして、左隣に座っていた難しい顔だった女性が赤ちゃんを見て、ニコッとして、そのお母さんと話し始めました。なにやら話が弾んでいます。お母さんと赤ちゃんの間のあったかい空気がその女性の周りも包みました。
しばらくすると、もう一人、別の女性が今度は右隣に座りました。そして赤ちゃんを見てにこっと笑って幸せそう。あのあったかい空気がさらに広がりました。
バギーを押したお母さんが来る前にはなかった愛にあふれた空間。言葉じゃない。愛情が、母の愛が、子の母を慕う思いが辺りを包んでいくのです。
2013年10月1日火曜日
つれづれ
またしばらく間が空いてしまいました。
この夏はあまりの暑さで、何もかもが停滞していました。
さて、安倍首相が消費税の8%を来年4月に行うとのこと。いよいよ来たか。これまでも安倍首相の威勢のよい、自信に満ちた「日本を元気にする」というかけ声にだまされた気分になりましたが、大企業優遇・庶民無視の現政権の姿勢に私はもうだまされないぞ!という気持ちです。
2020年のオリンピックパラリンピックが東京に決まったというニュースが流れたとき、関係者がこぞって歓喜に小躍りする姿を見たとき、私は悲しかった。これまで東京でオリンピック?それもいいかもしれない。何か目標があるっていいかもしれない。内向き国民性が少しは外に向く、ちょうど良い機会かもしれない、などとのんきな事を考えていました。オリンピック招致の意味すること、お金が回るかもしれないけれど本当に回って欲しい人に行かずに浮かれた人たちの間で回るだろう事には思い及びませんでした。
でも、いまははっきりと見えます。建設の槌音が更なる自然破壊につながり、人々の関心や人々の税金が本当に必要とするところへ回る事はないだろう事が。
Fukushimaは2年半経って、少しずつ隠されてきた真実が暴かれ、それに伴ってあの事故はあらゆる点でこれまで日本人、さらに人類が経験した事のない大事故だった事がわかってきました。こんなに困難なFukushimaの現実から目を反らし、忘れ去って行こうとしている人たち。悲しすぎます。
この夏はあまりの暑さで、何もかもが停滞していました。
さて、安倍首相が消費税の8%を来年4月に行うとのこと。いよいよ来たか。これまでも安倍首相の威勢のよい、自信に満ちた「日本を元気にする」というかけ声にだまされた気分になりましたが、大企業優遇・庶民無視の現政権の姿勢に私はもうだまされないぞ!という気持ちです。
2020年のオリンピックパラリンピックが東京に決まったというニュースが流れたとき、関係者がこぞって歓喜に小躍りする姿を見たとき、私は悲しかった。これまで東京でオリンピック?それもいいかもしれない。何か目標があるっていいかもしれない。内向き国民性が少しは外に向く、ちょうど良い機会かもしれない、などとのんきな事を考えていました。オリンピック招致の意味すること、お金が回るかもしれないけれど本当に回って欲しい人に行かずに浮かれた人たちの間で回るだろう事には思い及びませんでした。
でも、いまははっきりと見えます。建設の槌音が更なる自然破壊につながり、人々の関心や人々の税金が本当に必要とするところへ回る事はないだろう事が。
Fukushimaは2年半経って、少しずつ隠されてきた真実が暴かれ、それに伴ってあの事故はあらゆる点でこれまで日本人、さらに人類が経験した事のない大事故だった事がわかってきました。こんなに困難なFukushimaの現実から目を反らし、忘れ去って行こうとしている人たち。悲しすぎます。
2013年8月6日火曜日
ヒロシマ 8月6日
その日、私の義理の母は広島市大手町の自宅にいて被爆した。義父は仕事で県外にいた。
私が義母と広島の家で一緒に過ごしたのはほんの数えるほどの日数だ。海外勤務がほとんどの夫について私も日本にいることが少なかったからだが、夏のこの時期、何度となく母はこの日の記憶が蘇ってくるのか一言二言話し始め、そしてそこでことばを濁してそれっきりになった。あの体験はとても言葉で語り尽くせるようなものではない、地獄だったと。
私の夫は戦後の生まれだが、当時10歳の兄にあたる人がいた。母は崩れ落ちた家の下敷きになって身動きが取れず、ちょうど母を心配して戻ってきた兄に、あの兵隊さんについて逃げなさいと、身動きができずにいる母を助け出そうとする兄を制して言ったのだそうだ。その兄とは、結局それが最後の会話になってしまった。どこかで生きていてくれれば、と八方手を尽くして探し、毎年この日に新たに付け加えられる犠牲者の名簿も確かめるものの、兄の名前はない。
85歳で 亡くなるその日まで、母は息子の消息を心のどこかで探し求めていたのだろう。たとえわずかなわずかな望みであっても、我が子にはどこかで生きていてほしいと願っていたことだろう。その心の痛みは、私自身が母になって初めて共振を起こし、年を経るごとに我がことのように思えてならない。
戦争を知らない私、原爆を知らない私も、戦争が人々を不幸にし、原爆がこの世界にどれほどの深い傷を齎したか、身近な人の悲しみから察することができる。本当に多くの犠牲の上に今の時代があることを思う。
私が義母と広島の家で一緒に過ごしたのはほんの数えるほどの日数だ。海外勤務がほとんどの夫について私も日本にいることが少なかったからだが、夏のこの時期、何度となく母はこの日の記憶が蘇ってくるのか一言二言話し始め、そしてそこでことばを濁してそれっきりになった。あの体験はとても言葉で語り尽くせるようなものではない、地獄だったと。
私の夫は戦後の生まれだが、当時10歳の兄にあたる人がいた。母は崩れ落ちた家の下敷きになって身動きが取れず、ちょうど母を心配して戻ってきた兄に、あの兵隊さんについて逃げなさいと、身動きができずにいる母を助け出そうとする兄を制して言ったのだそうだ。その兄とは、結局それが最後の会話になってしまった。どこかで生きていてくれれば、と八方手を尽くして探し、毎年この日に新たに付け加えられる犠牲者の名簿も確かめるものの、兄の名前はない。
85歳で 亡くなるその日まで、母は息子の消息を心のどこかで探し求めていたのだろう。たとえわずかなわずかな望みであっても、我が子にはどこかで生きていてほしいと願っていたことだろう。その心の痛みは、私自身が母になって初めて共振を起こし、年を経るごとに我がことのように思えてならない。
戦争を知らない私、原爆を知らない私も、戦争が人々を不幸にし、原爆がこの世界にどれほどの深い傷を齎したか、身近な人の悲しみから察することができる。本当に多くの犠牲の上に今の時代があることを思う。
2013年7月13日土曜日
英語教育に力をいれるそうですが
いよいよ来たか!
大学受験にTOEFL一定以上の成績を条件、高校の英語は授業を英語で行う、とか小学校低学年から英語を必修科目に?と云ったニュースを見るにつけ、こういう改革案を出す人たち自身に英語コンプレックスがあるのではないかと思えてなりません。
小さいうちからコミュニケーションの手段にはいろいろあることを肌で感じることは大切だと思いますが、学校教育で果たしてどこまで成果を上げられるのだろうか、もし本気で「日本人の英語力を高める!」というのなら、それが必然の、生活に欠かせない力だということを誰もが認識できるような状況が必要だと思います。つまり、今のように、テレビの外国語放送を日本語に吹き替えて流さない(せいぜい字幕)、外来語はカタカナに直さず元の言語のまま使う、といった、日常での英語のあり方がまず変わらないと、結局かけ声倒れに終わりそう。この日常に英語が「正しく」入って来ることで、小学校で教える程度の英語的感覚は自然に身に付く様な気がします。そうしたら、小学校の授業時間をもっと別のもっと大切な考える授業に当てられますよね。
それに、日本人全員が英語を話せるようになる必要はどこにあるでしょうか。標準語を英語に変えよう、日本語は捨て去ろうと、そこまで決心したのなら話は違うでしょうけれど、世界の流れに乗り遅れないため、日本の経済発展のため、という理由なら、そういう人を育てる為の高校とか、大学とか、その目的で勉強したい人に勉強してもらえれば充分でしょう。
英語は確かに重要な「外国語」ですが、それは「外国語の一つ」でしかないのだし、何よりも大切なのは日本語の力だと思うのです。
(このコラム、だいぶ前に書き始めてそのままになっていました。状況は何も変わっていないと思うのでそのままポスト!)
大学受験にTOEFL一定以上の成績を条件、高校の英語は授業を英語で行う、とか小学校低学年から英語を必修科目に?と云ったニュースを見るにつけ、こういう改革案を出す人たち自身に英語コンプレックスがあるのではないかと思えてなりません。
小さいうちからコミュニケーションの手段にはいろいろあることを肌で感じることは大切だと思いますが、学校教育で果たしてどこまで成果を上げられるのだろうか、もし本気で「日本人の英語力を高める!」というのなら、それが必然の、生活に欠かせない力だということを誰もが認識できるような状況が必要だと思います。つまり、今のように、テレビの外国語放送を日本語に吹き替えて流さない(せいぜい字幕)、外来語はカタカナに直さず元の言語のまま使う、といった、日常での英語のあり方がまず変わらないと、結局かけ声倒れに終わりそう。この日常に英語が「正しく」入って来ることで、小学校で教える程度の英語的感覚は自然に身に付く様な気がします。そうしたら、小学校の授業時間をもっと別のもっと大切な考える授業に当てられますよね。
それに、日本人全員が英語を話せるようになる必要はどこにあるでしょうか。標準語を英語に変えよう、日本語は捨て去ろうと、そこまで決心したのなら話は違うでしょうけれど、世界の流れに乗り遅れないため、日本の経済発展のため、という理由なら、そういう人を育てる為の高校とか、大学とか、その目的で勉強したい人に勉強してもらえれば充分でしょう。
英語は確かに重要な「外国語」ですが、それは「外国語の一つ」でしかないのだし、何よりも大切なのは日本語の力だと思うのです。
(このコラム、だいぶ前に書き始めてそのままになっていました。状況は何も変わっていないと思うのでそのままポスト!)
2013年5月27日月曜日
食べ残しのこと - 続き
(だいぶ間が空いてしまいました。最近目の前の情報に流されて、何か一つのことをじっくり考えられなくなってきたようで、こまったものです。。。。)
前回ドギーバッグ普及委員会という団体があると書きました。
そこで、このサイトへ行ってみました。
そして、私はまたまた考えました。
この活動自体は、持ち帰りたいのにできないでいる人たちの背中を押すことで無駄をなくして行こうという素晴らしい活動だとおもいます。でも、こういう活動がなければこのまま食べ残しを捨て続けるしかないのでしょうか。
食品の賞味期限・消費期限というものを考えてみました。
コンビニなどの鮮度重視のお店は、賞味期限(あるいは消費期限)を厳守、それを過ぎたら迷わず廃棄だそうですね。
元々、この消費期限とか賞味期限の定義そのものが現実的ではないように私は思います。食品衛生法やJAS法で定められた定義は、複雑で分かりにくいです。賞味期限とは 「その食品を開封せず正しく保存した場合に味と品質が充分に保てると製造業者が認める期間(期限) 」だそうですが、開封せずに正しく保存、という状態と現実に消費者が購入した後の状態とは決して同じではないはず。味と品質が充分に保てると製造業者が認める期間(期限)というのも曖昧です。
たった一行、賞味期限(消費期限)という文字の為に数えきれないほどの無駄が出る。企業側は規則を守っている。守る為には無駄は致し方ない、ということなのでしょうけれど、元々、上記のような曖昧な基準を遵守することにどれだけの意味があるのだろうか、その為に廃棄される食品。食べ残しで捨てられる食品同様、もったいない話だと思います。
前回ドギーバッグ普及委員会という団体があると書きました。
そこで、このサイトへ行ってみました。
そして、私はまたまた考えました。
この活動自体は、持ち帰りたいのにできないでいる人たちの背中を押すことで無駄をなくして行こうという素晴らしい活動だとおもいます。でも、こういう活動がなければこのまま食べ残しを捨て続けるしかないのでしょうか。
食品の賞味期限・消費期限というものを考えてみました。
コンビニなどの鮮度重視のお店は、賞味期限(あるいは消費期限)を厳守、それを過ぎたら迷わず廃棄だそうですね。
元々、この消費期限とか賞味期限の定義そのものが現実的ではないように私は思います。食品衛生法やJAS法で定められた定義は、複雑で分かりにくいです。賞味期限とは 「その食品を開封せず正しく保存した場合に味と品質が充分に保てると製造業者が認める期間(期限) 」だそうですが、開封せずに正しく保存、という状態と現実に消費者が購入した後の状態とは決して同じではないはず。味と品質が充分に保てると製造業者が認める期間(期限)というのも曖昧です。
たった一行、賞味期限(消費期限)という文字の為に数えきれないほどの無駄が出る。企業側は規則を守っている。守る為には無駄は致し方ない、ということなのでしょうけれど、元々、上記のような曖昧な基準を遵守することにどれだけの意味があるのだろうか、その為に廃棄される食品。食べ残しで捨てられる食品同様、もったいない話だと思います。
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